2011年10月25日火曜日

グローバル化とセクシュアリティ、の前に

さてさて、前回はセクシュアリティを通した主体構築の方法が、後期近代において変化の兆しを見せているのではないか、という話を書いた。

セクシュアリティとは単に性的な事柄についての問題なのではなく、近代における主体形成の問題なのだと論じたのは、かのミシェル・フーコーだった。

近代以降、セクシュアリティの管理は主体管理と密接に結びついてきており、セクシュアリティの管理を通して、人は国家を再生産する生-権力の担い手として生産されるようになった、とフーコーは述べた。
この「近代」とは、フーコーによればイギリス・ビクトリア朝以降の時代ということになるから、おおよそ19世紀から20世紀初頭ということになる。

この時期の研究は、たとえば日本においてなら赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』などに代表される研究がある。
日本の場合は西洋のセクソロジーの輸入という形でセクシュアリティの「科学的」知識が導入され、これにより、明治初頭には男色や硬派といった形で存在していたホモセクシュアリティは、「変態性欲」として分析と治療の対象となっていくことになる。
そして、このセクシュアリティについての社会的認知の変容は、明治期から昭和初期にかけて、日本が天皇制ファシズムへと突き進んでいったプロセスと重なっている。

このように、セクシュアリティの管理が帝国主義的な国家主義と重なっていたのが、近代のセクシュアリティの第一段階であったとしよう。

では第二段階は何か。それは高度経済成長と消費社会の到来に関わる。
第二次世界大戦が終わり、全世界規模で19世紀型の帝国主義的・植民地主義的国家が反省されるようになる中、日本もまた瞬く間に「民主化」され、いかにも生粋の民主主義国家であるかのような装いを見せるに至った。

この「民主化」は言うまでもなく連合国の主導によるものであって、サンフランシスコ平和条約によって独立を果たすころには、日本はすっかりアメリカの茶坊主になっていた。

こうした中で人身売買を防ぐという観点から売春防止法が成立するなどして、性風俗の「民主化」も行われていったのだが、周知の通り、公娼制度は廃止されたものの、性風俗産業が衰えを見せるということはなく、高度経済成長期にあっても性風俗産業は盛んだった。

この当時の著名な性風俗街が労働者街のすぐ近くに存在していたというのは、高度経済成長期における性風俗の位置付けを確認するのに格好の手がかりとなる。この時代、性風俗はおもに肉体労働者のためにあつらえられていたのであって、資本主義経済下において労働力を再生産するための場所の一つが、たとえば横浜の黄金町や川崎などの性風俗街だったのだ。

戦前においてセクシュアリティが国家主義と結びついていたとするのなら、戦後の高度経済成長期には、セクシュアリティは資本主義と強固に結びついていたのだった。
ちなみに、1954年には銀座で『青江』が開店し、同時期には美輪明宏が『銀巴里』でシャンソンを歌っていた。そして一方では、売春防止法の成立により赤線が廃止されたことにともなって、新宿二丁目にゲイバーが集まりだすことになった。

セクシュアリティと資本主義との結びつきという点でいうと、この時期、性風俗街は下部構造、「ゲイバー」は上部構造にあったということも言えるのかもしれない。

この傾向が変化するのは、高度経済成長以降のことで、性風俗産業においては「素人」の参入が行われるようになる。(続く)

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