2012年8月28日火曜日

『屍者の帝国』(伊藤計劃×円城塔、河出書房新社)書評

作家にとって死とは何か、ということを考えてみると、それは作品が忘れ去られてしまうことだろう。作者がすでに死んだ身であったとしても、作品が読まれ続ける限りは、その作品の内に作家は存在する。

というよりも、作家とはつまり作品が読まれた後で事後的に存在すると感知されうる存在であるに過ぎないのかもしれない。少なくともテクスト論的にはそうでありうる。生身の作者はすでにこの世には存在していないのかもしれないが、その作品のテーマや文体に作家は生き続けている。新しく作家の作品を読む読者は、作家が100年前に死んでいようが、1000年前に死んでいようが、その作品の内に作家を見出す。その意味では、作者は紙に印字された言葉や画面に映された言葉の中に生き続けているとも言えるし、あるいは死に続けているともいえる。

以上のようなテーマを内包しているという意味で、『屍者の帝国』は伝奇SFを装った円城塔作品であるといえるし、それはまた伊藤計劃の作品であるとも言えるだろう。

正直なところ、最後の100ページくらいまで、私はこの作品を単なる王道展開の伝奇SFだと思って読んでいた。そして、円城塔が、伊藤計劃のあの世界観を再現しきれていないことを残念に思っていた。伊藤計劃の遺稿をベースに書き継ぐからには、そこには伊藤計劃がたとえば『虐殺器官』で描き出したような「肉」の描写が必要だが、円城塔の文体にはそれが欠けているのだ。

伊藤計劃に独特の「肉」の描写。それは『虐殺器官』の冒頭の文に代表されうる。
「まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。」

伊藤計劃の小説にとって、死体の描写は極めて重要だ。『虐殺器官』しかり、『ハーモニー』しかり、「The Indefference Engine」しかり。死体を詩的に描き出すところから、伊藤計劃の小説では戦争や生命といった主題が立ち上がってくるのであり、したがって今作においても、まさに「屍者」が主題の一つとなっているがゆえに、そこには「肉」の描写があって然るべきだった。しかし、円城塔が描き出した『屍者の帝国』には、そうした「肉」の描写はほとんど見当たらない。

もちろん今作は冒険活劇でもあるので、多くのアクション・シーンがあり、屍者も生者もバタバタ殺されるのだが、そこには「肉」の描写が欠落している。したがって、半分ほど読んだ段階で、「これは伊藤計劃の作品ではない」として作品を放り出してしまう人がいたとしても、何ら不思議ではないし、むしろ当然だろうと思う。実際、私としても最後の100ページに至るまではそのような感想でいたのだから。

では、最後の100ページを読んでどう評価は変わったのか。それは、結局のところ作家は作家でしかなく、円城塔は円城塔であるし、伊藤計劃は伊藤計劃であるということの気づきであった。確かにそこには「肉」の描写はないかもしれない。しかし、循環する言葉がある。円城塔の文体がある。その文体は「肉」の描写が提供するリアリティを補うものではないのかもしれないが、それとは別の論理的ショックを与えてくれる。小説が書かれることには目標があるのだとして、その目標がたとえば主題の提出ということなのだとしたら、主題を「肉」の描写によって提出するか、それとも論理的ショック療法によって提出するかは手段の違いにすぎない。と、そんな話ではある。

あるいはバトンの引き継ぎといってもいいのかもしれない。伊藤計劃によるプロローグから始まったリレーのバトンは、何者かの手によって受け継がれ、最後の100ページで円城塔によって引き継がれた、と。そして、結局のところ「誰が」書いたのかは重要ではなく、「何が」書かれたのかだけが重要なのだ、と。このようにして二人の作者による『屍者の帝国』は完成をみたのだろう。

「わたしは、フライデーのノートに書き記された文字列と何ら変わることのない存在だ。その中にこの私は存在しないが、それは確固としたわたしなるものが元々存在していないからだ。わたしはフライデーの書き記してきたノートと、将来的なその読み手の間に存在することになる。」(『屍者の帝国』p.432)