2011年10月10日月曜日

セクシュアリティの個人化について その2

昨日書いた「個人化」の話を続けよう。

個人化とは、単に何事かについての選好が個人の指向性や嗜好性に還元されることだけを指しているのではない。選好が個人の指向性や嗜好性に還元される現象そのものは、これまで「プライバタイゼーション」というような言葉で表されてきた。しかし、個人化と呼ばれる現象は、より広い現象として捉えられなければならない。

後期近代における個人化の過程が、プライバタイゼーションと区別されるのは、「個人化」が制度的に作動する現象であるということだ。ここで言う「制度的」というのは、言い換えれば「社会制度的」ということである。つまり、この社会において、「個人化」とは社会制度を支える一つの重要な要素として作動しているのだ。何らかの社会制度が上手く作動するために必要不可欠なものとして個人化という現象は生じており、私たちがこの個人化の過程に入り込めば入り込むほど、社会はより潤滑に作動するようになる。

このような社会の捉え方は、個人を社会に包摂することの重要性を訴える思想や、プライベートなものをパブリックなものに接続することを重視する思想とは、かなり隔たりがある。個人を社会が包摂するも何も、社会はあらかじめ個人化された個人をあてにして作動しているのだし(その意味でははじめから「包摂」されてしまっている)、プライベートなものをパブリックなものに接続するといったところで、そもそもパブリックな作用を免れていない「プライベート」など存在しえない。
これらの思想はどちらも冗長表現であるように、私には聞こえる。

セクシュアリティが近代に入って注目されたのは、人を性的主体として塑像するためであったというのは、今さら言うまでもない。近代というのをおよそ第二次世界大戦の終結までと捉えると、国家主義的政策のもとに労働力や生産力の再生産過程としての生殖に価値が置かれた結果、異性愛が称揚され、同性愛などの「変態性欲」は治療の対象となった。そうして、人は自身のセクシュアリティを自己モニタリングするようになっていった。

しかし、翻って現在ではどうだろう。人は様々なセクシュアル・アイデンティティによって自己を規定するようになった。そして、今ではかつてのように「変態性欲」が治療の対象と見なされることも少なくなってきている。このような事実は、セクシュアル・マイノリティにとって事態が好転してきたということを意味するのだろうか。

私はそのようには考えていない。

これは近代以降に続いてきた「セクシュアリテの体制」が消えたり崩壊したりした結果生じた変化ではないのだ。これは、単純にセクシュアリテの体制の目指す方向が変化したことを表しているにすぎない。

「セクシュアリテの体制」は、かつてのように一国の国力を高める方向ではなく、グローバルな流動性に対応する主体を造り出すという方向へとシフトしていった。そしてこの変化を露骨に示しているのが、たとえばグローバル企業による「ダイバーシティ」の称揚だ。

国家が基本的人権の観点からセクシュアル・マイノリティの存在や立場を擁護するのではなく、グローバル企業が利潤の観点からセクシュアル・マイノリティの存在や立場を擁護する。これが現在生じている性的主体の構築プロセスであり、セクシュアリティの個人化の過程なのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿