2012年5月17日木曜日

結婚と社会的承認、あるいは管理

同性婚に関するツイートを読んでいるとき、次のリンクが目に入った。2008年にカリフォルニア州で同性婚が禁止されたとき、MSNBCのニュースキャスターであるキース・オルバーマンが行ったスピーチだ。
われわれの歴史の中で、世間に強いられて異性と結婚したり、偽装結婚や便宜上の結婚や、あるいは自分でもゲイだと気づかないままの結婚をしてきた男女は数知れません。何世紀にもわたって、恥と不幸にまみれて生き、自分自身と他人への嘘の中でほかの人の人生を、その夫や妻や子供たちの人生を傷つけてきた男女がいるのです。それもすべては、男性は他の男性と結婚できないがため、女性が他の女性と結婚できないがためなのです。結婚の神聖さのゆえなのです。 
http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2008/11/post_287.html
オルバーマンのスピーチは、たしかに大変感動的な内容だし、多くの人の胸を打つことは間違いのないことだ。これによってアメリカのゲイやレズビアンの活動家は大いに勇気づけられたことだろう。

同性婚は長らくアメリカで文化戦争とも言えるような対立を引き起こしてきたトピックだったし、今でも依然としてそうであり続けている。カリフォルニア州の提案8号に賛成した人々は自らの宗教的な価値基準が維持されたことを喜んだが、オルバーマンのこのスピーチは、そうした「保守」的な人々に対するものであるわけだ。一部のキリスト教会の人々は、神学的なものの見方から性的マイノリティを道徳的に頽廃したものだと断定し、その人格を貶め、尊厳を奪う。オルバーマンは公共の場で示されたそうした暴力に対して断固とした抗議を行なったのだ。

このような社会にあっては、同性婚の実現は「結婚」という言葉の意味をめぐる文化的闘争という側面を帯びる。「結婚」という言葉を宗教的右派の占有物だけにしてよいのか。宗教的右派が「結婚」の社会的意味付けの権限を独占することによって、性的マイノリティが「結婚」という社会的承認の機会を失うのは不当ではないのか。

ジョージ・チョーンシーの『同性婚』でも触れられているが、「結婚」の社会的意義が低下しているとはいえ、それでも多くの人々が同性婚を求めるのは、パートナーシップの公的な承認を得られるからという側面が強い。というか、アメリカの場合、結婚許可証を得てから結婚式を挙げないと公的に結婚したとは認められないわけで、婚姻手続きの中に社会的承認のプロセスが埋め込まれている。

ところで、ここで日本の婚姻制度を振り返ってみよう。日本の婚姻制度は戸籍制度と密接に結びついており、役所に婚姻届を出すことで新しい戸籍がつくられて、公的に「夫婦」だと認められる。以上。基本的に、日本の婚姻手続きの中に社会的承認のプロセスは埋め込まれていない。もちろん成人二名以上による署名と捺印が必要とはなっているけれども、これはなんとでもできてしまうものであり、婚姻届を出したあとにセレモニーを行わなければならないわけではない。

こう書いてみると、日本の婚姻制度というのは実に味気ないもののように思えるが、アメリカの婚姻制度が社会的承認を経ることによるパートナーシップの社会への包摂を重視しているのだとしたら、日本の婚姻制度はあくまで世帯の管理ということを重視しているように思える。役所は、個人同士が結びつくことで生まれた新しい生産単位を管理することに主眼を置いており、そのために婚姻制度がある、といった風だ。そして、僕は日本における同性婚を考えようとするのならば、この日本の婚姻制度のそもそもの奇妙さを何とかしなければならないと考える。日本の行政は、パートナーシップを単なる管理の対象としか考えていないのだから。

イギリスの著名な社会学者であるアンソニー・ギデンズが言うように、1980年代後半から世界は後期近代の段階に入っていて、人々が自己アイデンティティの探求に必死になる結果、純粋な関係性をより強く求めるようになってきているとするなら、同性婚を求める声の世界的な広がりは不思議なことではない。そして、そうした純粋な関係性やパートナーシップを行政が保障するというのも、社会政策上極めて妥当なものだ。

しかし、日本の行政はパートナーシップよりも戸籍を優先させるために、本来なら社会政策の対象となるべきパートナーシップを見なくなってしまっているように思える。選択的夫婦別姓がいまだに実現されていないことに象徴的だが、戸籍制度は多様なパートナーシップを包摂するには極めて不十分で、非効率的なシステムだ。そして多くの個人の幸福追求権を妨げている。もし同性婚を実現したいと思うのであれば、こうした日本の戸籍制度・婚姻制度を変えていくのでなければ難しいだろう。

実際、戸籍法は同性婚の実現にとっては大きな壁となるわけで、そうした壁の存在が簡単に予期できる現状で、戸籍制度の是非をめぐってより活発な議論がおこることを期待したい。

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